日刊知的ぐうたら生活

ボーカリストSCHAZZIEのブログ

コロナ禍で一年半会えなかった母に会う

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施設にいる母の面会許可が出たので、弟もワクチンを打ち終わった事だし、公共交通機関は使わず、弟の車で送り迎えしてもらい、土曜日に母に会いに行って来た。

リモートでたった15分間だけど、一年半ぶりの面会。前日はそわそわして、まるで遠足の前の日の子供かと思うほど落ち着かなかった。

お彼岸なので、去年亡くなった弟のお墓参りをして、現在は駐車場になっている実家跡を訪れてから施設へ。会議室のような所に1台のノートパソコンがぽつんと置いてある。同じ建物の中にいるのに直接会えないのは悲しいなと思いながら、待つことしばし。

母は私の事も弟の事も分からなくなっていた。

リモートでは家族だと認識できない人が多いと聞いていたので、ある程度は覚悟をして行ったものの、やはりショックだった。どこかで、私の事は分かるだろうと思っていたが、その思いも虚しく、恐れていた事が現実になってしまった。

「娘に似ているようだけど娘ではない」

「息子はそんなに白髪はないから息子ではない」

完全に拒絶された。母の中にあるのは、若い頃の私と弟のイメージで、現在の私と弟は他人でしかなくなってしまったようだ。認知症という病気だから、今後症状が改善する事はないだろう。一年半会えなかった事が心底悔しい。

その感情は悲しいというよりも、無為無策と愚策で感染を拡げた無能政府に、まともな対策もせずにウィズコロナなんてふざけた事を言っている為政者達に、改めて怒りを感じるものだった。私と母の一年半という時間は、もう取り戻せない。取り返しがつかない。今は怒りで悲しみが相殺されている。

ただ一つ慰めになったのは、母がとても元気にしていたこと。家にいた時より元気そうだった。やはり規則正しい生活と、人と接する事は身体にいいのだなと驚いた次第。

8月に誕生日のカードを送った事や、先日秋服を送った事を話しても、何も分かっていないようで、それもまたショックだったが、例え分からなくても、これまでと変わらず、母が快適に暮らせるよう心を配るつもりだ。それをするのは、娘である私にしかできないからだ。準備をする時に、毎回一抹の寂しさを感じるだろう事は否定できないが。

途中、母に「あなたの声はいい声ですね」と言われた事が胸に刺さった。娘と認識している時には一度も言われた事がないのに、他人という意識下で、初めて思ったのだろうか。

私が歌を歌っていた事も知らない母だが、それを言われて、親の介護とコロナ禍で音楽から離れてしまってはいるが、やはり私はそれを生かすべきなのだろうかと改めて考えさせられた。

帰りも弟に送って貰って、たいして体力も使っていないのに、抱えた思いが重たすぎて、今日は身体中が疲れている。